SSブログ

テーマに興味があるが、関連内容に瞠目 [読書]

壱人両名.jpg 「壱人両名」、尾脇秀和、NHKBOOKS125、NHK出版、2019
 ISBN:978-4-14-091256-0

 公家の正親町三条家に仕える大島数馬と、京都近郊の村に住む百姓の利左衛門は名前も身分も違うが、同一の人物である。・・・時間の経過や環境の変化で、名前と身分が変わったのではない。彼は大小二本の刀を腰に帯びる「帯刀」した姿の公家侍「大島数馬」であると同時に、村では野良着を着て農作業をする、ごく普通の百姓「利左衛門」でもあった。
 一人の人間が、ある時は武士、ある時は百姓という、二つの身分と名前を使い分けていた。
 江戸時代、彼のように、二つの名前と身分を使い分ける存在形態を「壱人両名」と呼んだ。

 という書き出しで始まる本書は上記のような「壱人両名」者が大勢いた中、各種の事例を古文書から紐解き紹介している。

 江戸時代人々は幕府の奉行の職掌に応じて身分が、武士(上は将軍から下は足軽・岡っ引き・浪人まで)・(公家-基本は朝廷の管轄))・寺社・百姓・町人(前記に含まれない人々全て)に区分されていた。壱人両名者はそれぞれの区分内のみならず区分を越えて生じていたという。

 通常、壱人両名者がその統括者に人別帳等によって通知しておれば問題ないのだが、様々な理由 ―武士は初期には兼職が禁じられていた、百姓は自分あるいは村の事情からなど― 手続きされていなかった場合に何らかの理由で露見し処罰された事情が記録として残っているということである。この場合「両名」が問題なのではなく、「通知しなかった」ことが「統括者を謀かった」として処罰の対象になったと。

 これはこれで興味のある内容だが、今回特に「知らなかった!」と興味深く感じたのは「領地」と「百姓の帰属」の実際についてである。

 領主の支配する領分は将軍が石高を以て分配したものであるから、必ずしも一ヶ所の一艇領域に固まっているとは限らない。大名の場合は国や郡といった一定領域を丸ごと宛がわれるが、(きっかり適合する領地があればそれで済むが、足りない端数があれば)「一円」から遠く離れた地域の村も「領分」の一部として与えられている例が少なくない。 仙台城主伊達氏の領分(いわゆる仙台藩62万石)のうち2万石余は、仙台から遙かに隔たった、近江国や常陸国などの村々に散在している。 p34

図1-1.JPG
                                             
 江戸時代の関東や畿内では「相給」と称する例えば一つの村で百姓が個別に領主が固定され、隣同士でも別の領主の「支配」であることがあった。複数の領主がいるため実務的にはそれぞれに名主とか庄屋もあり、人別帳も異なっていた。 p96

図3-1.JPG
                                            
 当時の政治・経済は米の生産をもとに営まれていたので、人口割合でも百姓が最大、職業・身分としても他を差し置き(年貢を納める)「百姓」のみが一つの区分だったゆえに、管轄が詳しく取り上げられているのだろう。ちなみに、他の資料によれば「町人(家主・家持)」は町として一括して上納するシステムだったようである(間借り人は上納の義務は無かった)。


nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。